2020年8月8日お茶会 映画『太陽が落ちた日』トークセッションまとめ

 8月8日、ハカルワカル広場ではオンラインで映画「太陽が落ちた日」のトークセッションを行いました。3月1日ビキニデーに開催するはずだった映画会は中止となりましたが、この映画をたくさんの人に観てほしいとの思いから、個々に観た上でトークセッションに参加して頂くという初の試みでした。スイス在住のアヤ・ドメーニグ監督にも参加していただき製作者のお話を聞くことができました。

【映画「太陽が落ちた日」THE DAY THE SUN FELL】

原爆投下時に広島赤十字病院の医師だった監督の祖父を出発点に、当時の看護師や肥田舜太郎医師の話を聞き、「原爆のその後を生きる姿」を見つめた作品。撮影期間中に福島原発事故が起こり、内部被ばくが現在の問題としてクローズアップされることに。亡き夫の思い出を語る監督の祖母や、福島からの避難者を自宅に受け入れるなど、できることをこつこつと積み上げて原爆・原発反対を貫く内田さんなど、魅力的な人物が登場する。

【映画についての質疑応答】

K.S.さん)スイスではこの映画を上映しましたか?

アヤ監督)はい。ちょうど今、原爆から75年目をきっかけとして、スイスとドイツのテレビで放送されました。5年前に映画が完成した時は、ローカル映画祭など世界中で上映されました。

E.S.さん)何度観ても素晴らしいのは、アヤさんがおばあさまのことを大切に思っていて、それが私たちの心情に響くのだと思います。製作時間はどれくらいですか?

アヤ監督)2010年から2013年の4年ぐらい。祖母は最後の頃2013年5月にはまだ元気でしたが、その年の10月に亡くなりました。

K.K.さん)外国の方の感想で印象に残るものがあれば教えて下さい。

アヤ監督)スイスで上映した時に、70歳以上と思われるアメリカ人が私の方に来て、歴史上の知らなかったことを知ったとショックを受けていました。ずっとアメリカに住んでいたので、原爆投下後に「原爆について話してはいけない」とか、「医者が内部被曝について誰にも教えてはいけない」と言われていた7年間の厳しい時期があったことを全く知らなかったのです。スイス人などは、映画に出てくる人物の中でも内田さんが大好きで、内田さんのキャラクターは世界中で通じると思います。

K.H.さん)私も内田さんが好きですが、その内田さんの家に福島の親子が避難して来ていて、当時、避難したいと言うと親からも頭が変になったと言われて辛かった、というのがリアルでした。あれはいつ頃のことですか。

アヤ監督)彼女は、原発事故直後まず秋田に避難して、広島に来たのは2012年の夏。内田さんは、ほかの人もホームステイで受け入れていました。

S.I.さん)私の百歳近い祖母、義理の父も子供の頃に戦争を体験しているのですが、なかなかそのことを話しづらいです。アヤさんはおばあさまに普段からそういう話を聞いていたのですか?

アヤ監督)祖母は私にあまりその話をしませんでした。祖父が生きていた間は原爆について聞いていたけれど。家族の中で、原爆はあまりテーマになっていませんでした。

S.I.さん)おじいさまは嫌な顔をせずに話してくれていたのですか?

アヤ監督)あまり話しませんでした。自分で原爆を直接体験していないからと言っていました。祖父が亡くなった時私は19歳でしたから、聞いた記憶はありますが深くは聞きませんでした。

次にトークセッションに移りました。はじめに二宮さんが、核と原発の歴史がひとめでわかる年表をスライド上映しながら「広島・長崎の前にニューメキシコで始まった核実験の歴史があり、それは福島原発事故にもつながり、今も続いている」と解説し、その後、4人のメインスピーカーがそれぞれの思いを語りました。

【トークセッション「広島・ビキニ・福島を考える」】

相澤さん)私の母も入市被ばく者でしたが、亡くなるまで被ばく者手帳を申請せず、原爆のことをほとんど話さなかった。体験していないと本当の意味ではわからないと思っていたのかもしれませんが、もう少し話してほしかった。聞き手を信頼してくれているから肥田先生や内田さんは体験を話してくれるのだと思いました。私はハカルワカル広場に関わるようになって、ビキニ実験などを詳しく知るようになり、原爆だけではなく、いろいろな形で世界中の人が被ばくしていることを知りました。世界中の人がみんなヒバクシャだという観点に立って核廃絶を主張していくことが大切なのではないかと思います。

鵜飼さん)僕の母は諫早出身だったので、子供の頃よく平和公園に行っていた。原爆のことを歴史的な事実として知ってはいたが、核の平和利用に疑いさえ持たなかった。福島の原発事故があり、ハカルワカル広場で活動するようになって原爆と原発がつながった。グローバルヒバクシャという言葉があって、放射能の被害は広島、長崎だけでなく世界中にある。アメリカ人も被ばくしているし、マーシャル諸島の水爆実験の被害者もいまだに苦しんでいる。核兵器を使うこと自体が悪魔的で、人間として許されないと日本人が発信していくことが大事だと感じた。肥田さん、内田さんのように諦めずに語り続けていくことが未来につながるという希望をもった。

上田さん)被ばくの実相を知ることが平和への一番の近道。私は3歳被ばくなので記憶はない。まず、原爆も原発も、核物質は絶対に人類とは共存できない。使用済み核燃料棒、プルトニウムをどうするのか。もう一つ強調したいのは、原爆投下は人体実験だということ。当時のアメリカ軍では、原爆投下は必要ないというのが常識だった。全国で200カ所も空襲に遭い、制空権がない日本が降伏するのはあたりまえだった。それでもポツダム会談の前日に投下した。2017年7月7日、国連で核兵器禁止条約が採択された。現在(8月8日時点)、賛同署名した国が82カ国、批准した国は43カ国です*(注)。あと7カ国が批准すれば国際条約となり、核兵器が悪魔のレッテルを貼られ、核抑止論が否定される。いま私たちは画期的な時期に生きており、大いに希望がある。被爆者の平均年齢は83歳。2016年春に始めた被爆者国際署名は国連に1184万筆提出しました。これが核兵器をなくす大きな原動力になると確信しています。

西田さん)私には内田さんが一番魅力的で、強い印象を受けました。内田さんは自分の原爆症を直すのに自然の力を使って、汗をかいて直すという方法を見つけた。ドクダミを作って福島に送るとか、自主避難の親子を自宅に泊めて面倒をみるとか、自分にできるささやかなことを一生懸命して、自分の生活の中で原爆反対を訴えている。この映画で私たちの活動についても教えてもらった気がする。ハカルワカル広場は、食品や土壌を測定するほか、このようなイベントを開き、放射能の危険を多くの人に知ってもらう活動をしている。そういう、たとえ小さなことでも、みんなが意識をもってやることが、原発や核の廃絶につながっていくと感じました。

【参加者からの意見】

K.H.さん)数日前の朝日新聞で、今のアメリカの若者の約75%が、戦争を終わらせるのに原爆を使う必要はなかったと思っていると知り、昔からの洗脳がだいぶ解けてきていると希望を感じました。

上田さん)私がアメリカでヒバクシャとして話す時は、日本の加害責任にも触れ、謝罪から入ります。しかし原爆を使ってもいいとは言えないでしょ、そのことを話してもいいですか?と聞いてから話すと、どこでも共感してハグしてくれます。ここに人間の素晴らしさがあると思います。

K.S.さん)アメリカの人たちの意識が変わってきているのはすごく嬉しいのですが、その反面、日本の教育あるいは日本の姿勢が反対の方向に行っている感じがします。平和教育が少なくなったと聞いている。また8月6日の首相スピーチは毎年似たような内容の繰り返しです。非核三原則を維持するなどと、事実に反することを国のトップが言うことに失望します。日本には原爆と内部被曝で苦しんできた方がいるが、それに対して本当に向き合っているのだろうか? 悲しさと腹立たしさを感じます。でも希望を失わず、小さくても自分にできることを続けていきたいと思います。

A.I.さん)トランプ大統領が「使える核兵器」といって小型ならよいと言っているのは問題。放射能のその後の影響をわかっていないから言えること。映画では、肥田医師の内部被曝の話により、人々のその後の苦しみがクローズアップされている。そこを世界中の人に伝えないといけないと思う。

アヤ監督)過去のことは現在を考える上でとても大事です。過去に起きたことは終わったのではなく、気づかぬうちにまた繰り返します。原爆が街を破壊したくさんの人が死んだ、というだけではなく、その後、人々はどのようにその惨劇に向き合ったのか、それが私の映画のテーマです。そしてそれは福島の後でも繰り返されています。ですから、いま日本でとても大切なことは、人々が福島で実際に起きている本当のことを語り、ジャーナリストが調査して日本から情報を発信することです。日本で汚染のデータを集めるのはものすごく大事だと思います。いま福島はオリンピックとのからみで粉飾され、これは次の私の映画のテーマなのですが、福島はアンダーコントロールだという途方もないプロパガンダが世界に向けて発信され、人々はそれを信じてしまっています。私はスイスに住んでいますが、スイスの人たちもニュースを信じています。広島の原爆記念日にはたくさんの映像がテレビに流れますが、それは75年前のことであって、今起きていることとのつながりはありません。ドイツの第二次大戦時のホロコーストにも同じことがいえます。同じようなことが起こり、同じような構造が社会や政治の場でも繰り返されているのに私たちは気づいていません。私たちはもっと、過去の出来事を現在と繋げるように努力しなければいけません。教育を見直し、子どもたちが自ら考えることを学び、情報を集め、深く調べて自分の意見を持つことがとても大事です。戦争を繰り返してはいけないというだけでは、今の子どもたちにとって戦争は遠い過去のこと、歴史の本に載っている抽象的なことになってしまい、自分とのつながりがわからない。ですから、つながりをもたせることがとても大事です。アメリカの若者の75%が、戦争を終わらせるために原爆は必要なかったと考えているということを興味深く聞きました。とても励まされます。一方でドイツの大手テレビ局が作ったドキュメンタリーフィルムでは、相変わらずアメリカの見方、戦争を終わらせるためにどうしても原爆が必要だったという見方を繰り返している。まるで核兵器を祝福しているかのように。ドイツの文化的に良質な番組を作っているTV局がそのような番組を流しているのにショックを受けました。ヨーロッパの人々がそのドキュメンタリーを見たら信じてしまいます。人々がもっと教養を身につけ、批判的にものごとを見るようになり、TVで見たことをそのまま信じたりしなくなることが重要です。          (文責:石井暁子)

*(注):2020年10月25日、核兵器禁止条約調印国84、批准国50に達しました。2021年1月22日に国際条約として発効します。上田さん、よかったですね!(編集部)

*アヤ監督が英語で話した部分は、二宮さんがその場で日本語に通訳しました。また書き起こし全文と、映画に使われた短歌についてのアヤ監督のコメントはホームページで読めます。以下参照
ハカルワカル広場HP→右サイドの「メニュー」→左サイドの資料室→「ハカルワカル広場お茶会:講演会・映画会・トークセッション・パネル展の資料保管庫」 https://hachisoku.org/blog/?p=7761→ 表の中の2020.08.08 太陽が落ちた日 トークセッション→「資料」をクリック

ハカルワカル広場 お茶会: 講演会・映画会・トークセッション・パネル展の
資料保管庫

リンク2021 リンク2020 2019年 リンク2018
日付 種類 講演会・映画会・パネル展の名称 講師 HP チラシ 寄稿文・まとめ 資料
2019.12.07映画会ジャビルカハカルワカル案内チラシ寄稿文
2019.11.10ツアー第4回浜岡原発ツアー(廃炉と産廃施設)ハカルワカル案内チラシ会報31号
2019.10.07講演会日高ピースフェスティバル-放射能測定佐々木晃介資料
2019.10.05講演会廃炉を学ぶ渡辺敦雄案内チラシ会報31号資料
2019.09.07映画会第八の戒律ハカルワカル案内チラシ会報31号  
2019.08.29-09.19ポスター展北ドイツの反原発ポスター展ハカルワカル案内チラシ会報31号
2019.07.06講演会子どもの健やかな成長を願って、原発の危険を訴える運動山本智恵子、斉藤金夫案内チラシ会報30号資料 
2019.06.01総会2019年総会ハカルワカル  まとめ資料 
2019.05.18講演会ゼオライト測定で見えた再浮揚再降下について二宮志郎資料
2019.05.11映画会祝福(いのり)の海ハカルワカル案内チラシ 
2019.04請願安定ヨウ素剤を全市民に配布してください西田照子案内会報29号
2019.04.06寸劇、講演会微量放射能の危険性・1mSvを巡って二宮志郎案内チラシ会報29号
2019.03.02講演会ウラニウムから見る「核問題」上村英明案内チラシ会報29号
2019.03講演会核と原発の歴史二宮志郎 チラシ資料
2019.02.02講演会ヒバクシャ地球一周証言の航海上田紘治案内チラシ会報29号資料
2019.01.12講演会福島の甲状腺がんについて白石草案内チラシ会報28号資料

ハカルワカル広場 お茶会: 講演会・映画会・トークセッション・パネル展の
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2018.12.02朗読劇線量計が鳴る中村敦夫案内チラシ会報28号
2018.11.10講演会福島原発事故を風化させないために山田真  会報27号
2018.11.10配布会安定ヨウ素剤配布会ハカルワカル案内チラシ会報27号
2018.10.06講演会原発の町を追われて堀切さとみ案内チラシ会報27号
2018.09.01講演会原発輸出を考える鵜飼暁案内  
2018.06.16-17ツアー福島ツアーハカルワカル案内 会報26号
2018.04.07講演会浜岡原発の地元で声を上げて伊藤実案内チラシ 
2018.03.07測定シジュウカラの巣ハカルワカル測定資料
2018.03.03講演会核をさまざまに考える上村英明案内会報25号
2018.03.03映画会わたしの、終わらない旅ハカルワカル案内チラシ 
2018.02.16寄稿浜岡原発現地から伊藤実  会報24号資料
2018.02.03総会2018年総会ハカルワカル案内 会報24号資料
2018.01.13ワークショップ持続可能な生活~ボランティアを通して伝えたいこと小林恵美案内  

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日付 種類 講演会・映画会・パネル展の名称 講師 HP チラシ 寄稿文・まとめ 資料 映像
2020.11.07講演会原発の断りかた柴原洋一案内チラシ会報35号
2020.11.01プロジェクト10年目の土壌測定プロジェクトハカルワカル案内チラシ
2020.10.03講演会汚染林を燃やすバイオマス発電の問題点青木一政案内チラシ会報34号資料 
2020.09.05講演会トリチウム汚染水の海洋放出について渡辺敦雄案内 まとめ資料 
2020.08.08トーク太陽が落ちた日 トークセッションアヤ・ドメーニグ他FB新聞会報34号資料 
2020.08.08解説核と原発の歴史二宮志郎まとめ資料
2020.07.04講演会原発は地球温暖化防止に役立たない二宮志郎案内 まとめ資料動画
2020.06.06総会2020年総会ハカルワカル案内 会報33号報告 
2020.05.09講演会ダイオキシンの危険性渡辺敦雄案内チラシ会報33号資料動画
2020.02.01講演会ビキニ事件とは何か?-第五福竜丸事件を越えて石井暁子案内 会報32号資料 
2020.02.15-29パネル展ビキニ事件(第五福竜丸事件)パネル展ハカルワカル案内チラシ 資料 
2020.01.19見学会第五福竜丸展示館へ行こう!ハカルワカル案内チラシ会報32号資料 

核と右肩上がり時代の終焉

ボランティア 二宮 志郎

右肩上がりの時代

 新型コロナウィルスがもたらした事態は何だったのか。そのことは多くの学者に予測されていたのに、私達は何故無防備にそれがやってくるのにまかせていたのか。無防備にならざるを得なかった理由はどこにあるのか。
 ある学者が話の中(注)で上のグラフを出してきて、原因は地球環境に対して人類が与えている影響があらゆるところで急激に起こっていることを上げていた。
 (注):Peter Daszac, The ecology of pandemic era
 野生動物と人間活動の境界を急激に変化させることが、野生動物の中にしかいなかったウィルスを人間界にもたらすことにつながっているらしい。そしてその頻度は確実に増えてきているというのだから、第二、第三のコロナ騒動も覚悟しておく必要がある。
 グラフの元データはwww.igbp.netにあり、そこからダウンロードすれば一つ一つのグラフを拡大してみることもできる。たくさんあるグラフの横軸は始まりが1750年、赤い字で書いてある点が1950年、右端が2010年である。
 左半分の社会経済的傾向は全て急激な右肩上がりのグラフになっているが、その急激な上昇が始まるのは赤い印のちょっと左からというのが多い。それは核の時代と同期しているように見える。

人新世

 この人類が地球環境に大きな影響を与えることになる新しい地質年代として「人新世(アントロポセン)」という名前が提案されている。そして、その始まりの定義としては「1945年のトリニティ実験(広島・長崎の前にアメリカがニューメキシコで行った人類最初の核実験)」とする説が有力らしい。
 この人新世なるものの初期の急激な右肩上がりがいつまでも続くなどということはありえない。
 ただ私達の人生は、あり得ない状況の中にいる異常をあたりまえと勘違いできるくらいに十分短い。今生きている人達の大半はトリニティ以後に生まれていて、人新世の中で育っている。冒頭で上げた「何故無防備にコロナの事態を迎えてしまったのか?」という問いへの答もここにあるのではないだろうか。
 各グラフの赤い印の1950年と右端の2010年の中間、1980年の時、私はまだ学生だった。あのころを思い出してみると、「右肩上がりをいつまでも続けることはできない」という警告はすでにあちこちであった。しかし世界の回答は「まだまだ行ける」ということだったのか、グローバリズムによる市場の拡大は右肩上がりの時代を2000年を越えて引きずっていった。

 原発の推進もその回答の一つだった。右肩上がりを支えるエネルギー源ということだったが、原発の場合はスリーマイル、チェルノブイリの事故を経験して1990年には右肩上がりは終わっている。右肩上がりが続いていたらフクシマの経験は一回ですんでなかったかもしれない。

オーバーシュートの悲惨

 コップに水をどんどん入れていくと、表面張力で縁から盛り上がっていき、ある程度まではコップの容量を越えるところまで水を入れることができる。オーバーシュートとは、この容量を越えた分の水だと考えればいい。盛り上がった水の量が多いと表面張力で支えきれなくなって溢れ出る時の量も多い。

 上のグラフで赤線は激しいオーバーシュートが起こった例、青線は小さなオーバーシュートが起こった例を示している。激しいオーバーシュートが起こるとその反動が大きく、グラフの赤線は劇的な減少を伴っている。この劇的な減少は場合によっては悲惨な状況を作る。コップの水の場合水がこぼれ落ちるだけだが、人口だったら大勢の人が死ぬことを意味する。おそらく社会的経済的立場の弱い人から先に悲惨な死に方をすることになる。
 赤線と青線の違いは、容量オーバーにどれだけ早く気がついて右肩上がりを止めるかにかかっている。

いかに終焉させるか

 新しいウィルスによる疫病、地球温暖化、放射能汚染、生物種の絶滅、こういった様々な問題は、右肩上がりの時代が終わるとともに自然と終息するだろう。その時に人類も終焉していれば元も子もない。もし人類が生き残れたとしても、とてつもなくたくさんの悲惨な死の後に生き残ったのであればあまりに悲しい。
 新型コロナウィルスは「人類はもうオーバーシュートのところまで来てしまった」という事の警告の一つだったのだろう。上のグラフの緑の丸の領域に来ているということだ。これから先、赤線をたどるか、青線をたどるか、それは人類の行動いかんによる。
過去の実績を考えれば、この先人類が考え直して行動を改めていくなどということはできそうもない気がする。しかし、行動を改めていくことは、様々な矛盾を抱えながらでも少しずつ始まっている様にも見える。とにかく、オーバーシュートを小さくすることにつながる努力はどんなに小さなことであろうと意味があると思いたい。
 起こっている事実から目をそらさないようにすることは第一歩であり、それは誰にでもできる。冒頭に上げたグラフや、様々なデータを最新情報で更新しながら、何が起こっているのかを意識の中に置いていきたい。「ハカルワカル」とは正にそういうことである。

⇒ハカルワカル広場だよりの主要記事のインデックスは、ここにあります。

「世界の稼働原子炉を減らさずしては」

二宮 志郎

 いつかその日がやってくる、やってこなくては困る、と思っている日があります。「もう放射能は測らなくてもいい」という、そういう日です。残念ながらその日はまだです、しかし「測ろうと思っても測れない」という日が先に来てしまいました。ご存知のように、新型コロナウィルスの影響でハカルワカル広場の測定活動は3,4,5月と完全に止まってしまいました。6月になって午前中限定の形で再開しましたが、まだ以前の様な測定活動に戻れる日は見えていません。
 というわけで、今回は測定データがないところでの「ハカってワカった話」になります。過去のデータを参考にしながら、「もう放射能は測らなくてもいい」日は来るのだろうか、それを少し考えてみたいと思います。

最近4年間の測定

 4,5,6月という季節は、筍や山菜の測定もあり、1年のうちでは比較的測定活動は活発になる時期でした。それも最近4年くらいでは、放射能が検出されることはほとんどなくなり、土壌やキノコの測定でまだ福島事故の影響が消えてないこと、食品類の測定では不検出になること、そういうことを確認する意味での測定が主になってきていました。
 上記のグラフが示しているのは、4,5,6月の測定数の推移です。粘り強く測定活動を続けてくれている人がいますが、微減傾向にあることはたしかです。不検出の結果が出るのがほぼ確実になってくれば、測定が減るのは自然の流れです。

事故さえなければ

 放射能放出を心配しなければいけないような事故が起こらなければ、このまま微減傾向が続きそうです。しかし、そういう事故が起こらない日々が続くことはどこまで期待していいのでしょうか。
 原子炉が事故を起こす確率を見積もるのに、X炉年あたりに1回というような表記が出てきます。この炉年という単位は、いくつの原子炉を何年動かしたかということです。1つの原子炉を10年動かした場合、あるいは10の原子炉を1年動かした場合、どちらもそれは10炉年ということになります。
 世界規模では、商用炉に限れば約15,000炉年の中で、スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマと大きな事故が3回起こっていて、約5,000炉年に1回という数字が出てきます。日本に限れば、約1,500炉年の運転でフクシマ事故を起こしているので、1,500炉年に1回という数字が出てきます。
 しかし、これらの数字はいかにも心もとないです。100万炉年くらいの経験に基づく数字ならもう少し頼りにしていいと思うのですが、世界も日本もあまりに経験値が低いわけで、出てきている数字はそれほど信頼できる数字とは言えません。
 とにかく、原子炉をたくさん動かすと炉年数は増えます。世界では今現在も400を越える炉が動いているので、10年続くと4000炉年を越えていきます。その数を1/10の40に減らすと4000炉年に達するのには100年かかります。

世界の稼働原子炉を減らさずしては、

 「もう放射能は測らなくてもいい」という日が確実に来ることを想定できません。放射能は国境を越え、海を越え飛んでくることを考えると、400を越える稼働中の原子炉は、「運が良ければ」という前置きなしに、その日を期待できなくします。
 仮に運がものすごくよかったとします。そうすれば事故は起こらなくて、撒き散らされる死の灰はないでしょう。しかし、死の灰は使用済み燃料プールか、キャニスターの中か、どこかそういうところで、もう一つ別の運を期待して保管されていることになります。もしそこで運が悪いことになると、、、やっぱり放射能測定が必要になってしまい、その日は遠のきます。
 運にたよらないようにするには、炉年数を小さくすることです。稼働中原子炉をゼロにすれば、100年経とうと、1000年経とうと、ゼロをかけるのですから0炉年です。その時の事故に会う可能性はゼロで、それだけは確かです。

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ハカってワカった話 原木しいたけ4検体

二宮 志郎

 世の中コロナウィルス騒動で大変ですが、コロナウィルスに感染しているかどうかの検査にはPCR法というのが使われています。私は全然知らなかったのですが、今は高校の生物の授業でも教えている、基本的なバイオテクノロジーの一つのようです。「特定のDNAだけ増殖させる」ということができるのですから、バイオの世界は大したものです。

 しかし、バイオの世界でも誤判定というのはつきまとうようで、「偽陽性」「偽陰性」という誤った結果が一定程度出てしまうのは避けがたいようです。それでも「検査して判定を知る」ことができることのメリットは絶大で、100%の正確さでなくても客観的事実に近づければ、有効な対策も打ちやすくなるということでしょう。ハカルワカルの測定にも共通するものがあるように思えます。

原木しいたけ4検体

測定番号 検体産地 Cs137 (Bq/kg)
19121702 東京都、日の出町 10.9
20020402 東京都、八王子産 37.3
20022001 秋田県、購入八王子 誤検出(11.7)
20022101 秋田県、購入八王子 不検出
(上記を洗浄後再測)

 微妙なところで検出、不検出に分かれている結果です。秋田県の検体のスペクトルを以下に示します。

 青線のスペクトルを見れば明らかにウラン系列の自然放射能による誤検出であることがわかりますが、洗浄して再測定した結果の赤線はほとんどバックグランドと重なっていますから、自然放射能の原因は付着物にあったことがわかります。

八王子産は検出

 八王子産は37.3Bq/kgとやや大きな数値が出ています。誤差範囲の13Bq/kgを考慮に入れてもセシウム137による汚染が少なからずあるようです。

 この検体と日の出町産の検体のスペクトルの660keV付近を拡大したものを以下に示します。

 八王子産が赤線ですが、660の線のところまで山が広がっているところから見ても、自然放射能の影響だけではなくCs137が存在していることを示しています。青線の日の出町産はCs137の存在は微妙です。誤差範囲は4.5Bq/kgで限界値ギリギリのところでの検出になっています。

 林野庁のホームページに行くと、「きのこや山菜の出荷制限等の状況について」という情報があり、まだまだ多くの市町村で原木しいたけに対して出荷制限がかかっていることがわかります。福島原発事故から9年、放射能はまだまだ人を苦しめ続けているという現実がそこにあります。

 ハカルワカルの測定で原木シイタケから放射能の検出がなくなる時が来たら、少し喜んでいいのかもしれません。もちろん、目を背けることでなくなるのでなく、測り続けることで「本当になくなった」ことを知るのでないと喜べません。

⇒ ハカルワカル広場だよりの主要記事のインデックスはここにあります。

ビキニ事件とは何か?-第五福竜丸事件を越えて

石井 暁子

  ビキニ事件というと「アメリカの水爆実験により第五福竜丸が被爆した事件」と思って終わりにしていないだろうか。教科書でもそう習うことが多いのだが、実際にはどういう事件だったのか、改めて調べてみた。

 まず、なぜマーシャル諸島ビキニ環礁(核実験はエニウェトク環礁でも行われた)だったのか? 1880年代以降、ドイツはビスマルク諸島、カロリン、マリアナ、マーシャル、パラオ各諸島を獲得していた。そして第一次世界大戦の結果、ヴェルサイユ条約により日本が赤道より北にある旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得た。このため、マーシャル諸島は第二次世界大戦中、日米の戦争に巻き込まれ、戦争被害を受けた。1944年の戦いからアメリカの占領下に置かれ(戦後アメリカの信託統治領となる)、いくつかの条件に当てはまったため核実験場にされることとなり、ビキニ環礁の住民はなかば強制的に移住させられた。

 マーシャル諸島におけるアメリカの核実験は、広島、長崎の翌年、1946年7月1日から始まり、1958年まで合計67回も行われた。1952年のアイビー作戦から、核爆発エネルギーの規模が桁違い(キロトン級から1000倍のメガトン級)に大きくなり、第五福竜丸が被ばくした1954年のキャッスル作戦第1回目ブラボー実験にいたっては、15メガトンという最大級の爆発力であった。これは広島原爆の約1000倍の大きさにあたり、キノコ雲の高さは30kmを超え、成層圏にまで達した。このため、キャッスル作戦による放射性降下物は世界中にまわり、日本やアメリカ、アフリカ大陸にも降った。このことは、1984年にアメリカが機密解除した公文書にまとめられており、2010年に日本の研究者がその全文を米エネルギー省ホームページで発見してから研究がすすめられている。それによると、死の灰はビキニ環礁から東西に長い楕円状に広がり、その総量は22.73メガキュリーと算出された。アメリカ南西部が日本の約5倍も死の灰を受けたとの記述もあり、アメリカ自身がビキニ水爆実験の被災国であったことがわかる。

 当時の状況を見てみよう。3月1日に始まったキャッスル作戦(〜5/14)では、アメリカの予想以上に汚染海域が広がり、3月19日にはアメリカの指定する危険区域が約8倍に拡大されたが、そのことを知らずに操業していた漁船も多かった。日本の漁船では、第五福竜丸を含む5隻が3〜5シーベルト/時相当の場所にいた。第五福竜丸が水爆実験を目撃し、放射能症に苦しみながら一路日本に向かい、3月14日に焼津に帰港したことはよく知られているが、そのことが読売新聞にスクープされ、日本中が大騒ぎになっていた間も、多くの漁船が操業を続け、マーシャル諸島での核実験が終わる1958年までに、何度も被災していたということはあまり知られていない。被災した船はのべ1000隻を超えるという。

 水産庁と厚生省(当時)は、初めはマグロの水揚げを5港に指定して検査を指示し、汚染魚の廃棄を指導したり、調査船「俊鶻丸」に放射能調査をさせたりしたが、日米政府間の政治的な取引が進むにつれ次第に消極的になり、まだ船からも魚からも汚染が確認されていた1954年12月に、マグロの放射能検査と廃棄を年内で中止することを決定してしまった。これにより、汚染マグロは検査なしで流通し、第五福竜丸以外の被災した漁船員の調査も行われなくなってしまった。翌年1月、日米交換文書により、アメリカが慰謝料200万ドル(約7億2000万円)を払い政治決着とされた。その慰謝料の大部分(63%)は「魚価低落によるまぐろ生産者の損害」に当てられた。漁船員の「治療費」「慰謝料および傷病手当」は合わせても11%だったが、そのほとんどが第五福竜丸の乗組員に当てられたため、ねたみや羨望の的となり、漁船員が分断され声を上げ辛い状況が作られたのではないだろうか。

 被ばくした船員たちはその後どうなったのか。映画「放射線を浴びたX年後」で元船員を訪ね、話を聞いていた山下正寿さんと高校生たちのおかげで、事件から30年以上たってようやく元船員や家族の証言を知ることができるようになった。当時のマグロ漁は過酷で、操業中、普段は海水風呂、雨が降ると裸で飛び出し、雨水を洗濯物や洗い物に使っていたという。また、マグロを刺身にして内臓なども食べていた。死の灰が降って来た時、擦るとシミのようになったが風呂に入れなかったので洗い流すこともできなかったという証言もある。操業中から具合が悪くなり、パラオの病院に緊急入院したがそのまま亡くなった若い船員もいたという。操業中と帰路の2回、核実験の死の灰をかぶった漁船では、被ばくの2年後ごろから突発的に病気になったり急死する船員が増えたという。詳しくは山下正寿さんの著書『核の海の証言』を読んでほしい。

 また沖縄は、当時はアメリカの占領下で、水爆実験のことはあまり知らされていなかった。米軍の放射能検査を受けたマグロ漁船もあったが、結果は知らされず魚の廃棄命令もなかった。健康被害を受けていても水爆実験との関係を知らず、健康管理も不十分だった。

 マーシャル諸島の中でも最も酷かったロンゲラップ島は爆心地から180kmのところ(第五福竜丸は160kmの地点で被ばく)にあり、大人も子どもも、いつも通りに生活しながら水爆実験の被害に遭った。被災後、島民は米軍の基地に隔離され、さまざまな検査を受けさせられ生態学的なデータをとられるなど、モルモットのように扱われた。

 ほかにも日本の貨物船、客船、捕鯨船、韓国、台湾、フィリピンのマグロ漁船なども被ばくしている。1954年5月16日〜28日にかけては、日本で放射能雨が降り、降雨1リットル当たり、京都86,000カウント、静岡19,500カウント、東京10,000カウントと報道され大問題になった。また、ほとんど無防備で核実験に参加させられたアメリカ兵士も核実験の被害者といえる。

 このように国や立場を超えて広がるビキニ事件の被害を、より広くさまざまな面から捉え直してその実態を可視化することは、核兵器使用が世界に及ぼす影響を明らかにし、核兵器廃絶を実現するための力となるであろう。

典:『核の海の証言』

【参考資料】『核の海の証言―ビキニ事件は終わらない』山下正寿著 新日本出版社2012.9.25/「視えない核被害―マーシャル諸島米核実験被害の実態を踏まえて」早稲田大学大学院アジア太平洋研究科国際関係学専攻 竹峰誠一郎 2011年度博士学位申請論文/『ビキニ核被災ノート-隠された60年の真実を追う』「ビキニ被災ノート」編集委員会[編]2017.3.1発行

【お茶会参加者感想】

  • 第五福竜丸のことを知っている知人は沢山いるが、ビキニ事件としてとらえている人は本当に少ない。人として扱われなかった多くの人々の声を掘り起こし、真実を知る努力をしたい。
  • 人類すべてに関わる悪が、歴史上、ヒロシマ、ナガサキ‥‥ビキニと脈々とつながり絶えることがない。何故?過去を隠し、問題とせず、なかったことにするから。
  • あらためて戦後の核の歴史を学ぶことができました。いまだに私たちは、未解決のまま今日を過ごしているわけで、一日も早い核廃絶の実現のために、ささやかな努力をしたいと思いました。
  • 日本の核、原発の歴史に学ぶ必要、それがとても大切と改めて痛感しました。世界の流れの中で、どうもいつも後ろであいまいな日本をもっとハッキリ知らなくてはならない!「知っているつもり」はとても危険。
  • 第五福竜丸展示館の写真展示の乗組員1938年生まれの人などみな若い!そしてつくづく思った。私達は被ばく者、同時代人‥‥。
  • この事件は過去ではなく、これからの反原発、反放射能運動の重要な資料になると思います。
  • キャッスルとか、ブラボーとか、ヤンキーとか、このネイミングにアメリカの核実験や核兵器に対する姿勢が表れていて、言葉にならない怒りを感じます。一方、日本が韓国に対して被ばく船を売ったということに、あいた口がふさがりません。
  • アメリカの非道さ、それに迎合してしまった日本政府にも、あらためて憤りを覚えました。現在もほとんど変わりませんね‥。一歩でも二歩でも知って、行動していくしかないですね。
  • 「X年後」で解っていたつもりの事件でしたが、その裏側にはまだまだ知らされていないことがたくさんあるとわかりました。アメリカの為政者の、島の人々への差別感が大きく存在していると思う。

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