福島の今を知ろう! 2018福島視察ツアー
ハカルワカル広場 鈴木 映子
「今年は福島に行こう!」ハカルワカルとして福島を訪ねることが決まったのは、1月の事務局会議でした。福島行きは日帰りでは難しく、測定室がどのような立ち位置で関われば良いか見えない部分がたくさんありましたが、実際に現地を見なければわからないという思いからの決定でした。
福島との足場をどこに置くか考えた時、障害のある方達の支援のために何度も福島に入っている高木千恵子さんに案内をお願いすることにしました。高木さんを通じ、今の福島が抱える問題のひとつ、仮設焼却場の問題を追っている和田央子さんともつながり、今回のツアーの形ができていきました。
初日、途中乗車の和田さんとも無事合流し順調な滑り出し。常磐道から国道6号に入り、最初に向かったのは廃炉作業等に必要な遠隔操作の技術を開発検証する「楢葉遠隔技術開発センター」です。中身はともかくそびえる建造物に圧倒される思いでした。
途中で何度も線量計が鳴るのを聞きながら国道6号を北上。
(←地図をクリックすると拡大出来ます。)
その後「富岡町最終処分場」へ。8000~10万㏃/kgの指定廃棄物が持ち込まれますが、入口付近で1µSv/hを越え、早速の驚きでした。マスクもせず一日立ち尽くす誘導員の姿に胸が痛かった・・。
桜で有名な夜ノ森駅周辺は道の両側が帰還困難区域でバリケードが張られていました。
また「浪江町仮設焼却施設」はたくさんの方が津波で亡くなった請戸港のすぐ近く、町のあった跡に荒涼と広がる草原の中に建っていました。
宿泊先の「双葉屋旅館」は2016年7月の避難解除に伴い小林さんご夫妻が営業を再開した旅館です。
宿ではくつろぐ暇もなく連続講座でした。
食前は和田さんの説明。仮設焼却施設や実験施設に大手ゼネコンだけでなく軍需産業まで関わっているとのこと、驚きと絶望的な気持ちに包まれました。
食後は、旅館の女将友子さんと原発で仕事をしてきた白髭さんのお話でした。20mSv帰還政策に憤りながらもこの土地で生きる覚悟をし、少しでも良い方向を模索し続ける生き方に心打たれました。
翌朝、双葉屋さんを拠点に実践を積んできた「チェルノブイリ救援・中部」の河田昌東(まさはる)さんが偶然いらっしゃるとのことでお話を伺いました。内部被ばくを詳しく知りながら、この地で生きると決めた方達が少しでも安全に希望をもって生活できるよう、共に考え実践している方のお話に深い感銘をうけました。
その後河田さんや小林さんが立ち上げた「放射能測定センター南相馬」を訪問。「菜の花プロジェクト」の品々を買い込み、カンパも渡しました。
最後は吉沢正巳さんの「希望の牧場」へ。汚染され殺される運命だった牛300頭を今も飼い続け、エネルギッシュに訴えを続ける姿に励まされた思いです。
ハードなスケジュールとなってしまいましたが、福島にどう関わっていけば良いのか、少し見えたような気がして現地を後にしました。
写真 槌谷 正勝
和田央子さんのブログより
『6月16日(土)八王子の市民測定室「ハカルワカル広場」の皆さんと浜通りのツアーを実施しました。‥‥この日は駅前の双葉屋旅館へ宿泊。着いてすぐ夕食前に学習会。ようやくパワーポイントを使って詳細を伝えたところ、皆さんからびっくりするほどの拍手喝采をいただきました。』
浜通りをご案内いただいた和田央子さん、ありがとうございました。
ハカルワカル広場主催 福島視察ツアー 参加者アンケート概要
今回の福島視察ツアーに参加した皆様からお寄せいただいたアンケートの一部を紹介いたします。
ツアー全般への感想、ご意見のほか、3)ご自身と福島とのつながり、という観点からの声をお聞かせいただきました。
- 3)福島は親類、友人も多く第二のふるさとのような所です。果物、野菜など美味しく、素敵な所です。復興に向けて頑張っている人達がいる中、何かをやらねばと思いながらも行動に移せない自分が情けない。(N.K.)
- とても中身の濃い2日間でした。現地で3とか5マイクロの線量表示を目の辺りにして、放射能の恐ろしさに改めてゾー!としました。お話を聞いた皆さんからは何故ここで暮らすか、放射能とどう付き合うか、今何を考えているか、皆に伝えたい、分かってほしいとの強い思いをひしひしと感じた。「避難を第一」に思う私の気持ちに変わりはありませんが…。河田先生のお話やマップ作りの素晴らしい実践は勿論のこと、「暮らしに必要な物、場所を測る」というお話に、まず何を大切にするかが本当に大切だと思いました。吉沢さんの口調は東京で聞く激しさを表に出さず、優しかったです。和田さんのお話は知らなかったことが多く、ショックでした。甲状腺ガンの子どもたちのこと、治療のためのアイソトープの過酷さ。白石草さんの甲状腺ガンの話をきちんと知る機会が必要だと思います。人とのつながりを実感出来るツアーでした。(Y.K.)
- 3)がん治療のため1ヶ月以上右肩近くに放射線を浴びていましたが、合計どれだけ放射能を浴びたかわかりません。あれから4年経ちましたが、なんとか生きています。治療を拒否する力はありませんでした。(J.H.)
- 初めての福島ツアー。一人では出来ない、行けない内容でした。と同時に無残な事実が心に焼き付きました。これは人災だという強い想い。政治の方向が許しがたいです。
3)福島の苦しみは他人事ではないという実感。国民一人一人が正しい危機感を持つべきです。(Y.U.) - 3)2日間にわたる福島ツアーは盛り沢山の知識と体験を与えてくれた。除染されたゴミやフレコンバッグはすっかりなくなっていた。24ヶ所もある最終処分場や中間貯蔵施設で無理矢理処分しているからだ。住民に知らせず、姑息な手段でこれらの施設が作られ、反対しても結局は国の政策が貫徹されている。双葉屋旅館の女将さんである小林さんは、除染を受け入れたことに問題があると言っていた。膨大な汚染の山ができ、その処理に莫大なお金がかかり、全国に汚染をばら撒くことになるからだ。しかしその中で、次世代によりよい社会を手渡すために、その地その地で精一杯抗う姿が見て取れた。真実を知るために測定を続けている人、売れるはずのない牛たちを飼い続ける牛飼いの吉沢さん。これらの人たちとつながり続けること、真実を発信し続けることの大切さを学んだ。(M.H.)
- やはり百聞は一見にしかず。ボケッとしている自分に活が入りました。線量計がピーピー鳴っていても、何も見えない放射能の怖さ。そのただ中に避難させられた人々の恐怖…。壊れたまま、放置されたままの家々。生活の営みがあったはずの所が、どこまでも続く草原になっているのはとてもショックでした。(F.O.)
- 仮設焼却場については少し知っていたが、和田さんの話でそれがいかに原発関連の企業を儲けさせるか、無駄なものにも使われているか、福島の人たちの健康をさらにむしばむことなどお構いなしか、よくわかった。イノベーションコースト構想より油菜の里構想を支持します。吉沢さんの「正しさは一つではない」という言葉が印象に残った。
3)福島と沖縄にはずっと心を寄せていたいと思う。(Y.I.) - 3)あれから7年、薄れかかっていた11を昨日のように感じた2日間だった。被曝地、汚染された地域で生活している方々の声。気張らずに土に根付き原発に向き合っている話を聞くことが出来た。 エネルギー、社会と自分と対峙した時間だった。(T.Y.)
- 3)11から何か私で役に立てることがあったらと思っていましたが、結局、国会前で「原発反対」の声をあげることしか出来ず、お寺での「今の福島を知ろう」という会には時々参加していましたが、自分の中では歯がゆさばかり。でもこの企画に参加して一つ前に進めたような気がします。(K.O.)
- ①除染廃棄物の処分の状況把握と、②希望の牧場の現場を見る、をこのツアーで得たいと考えていた。①は目標を遥かに上回る成果を得た。和田さんの第一日の夜の説明は秀逸だった。(Y.I.)
- 原発のニュースを通じて覚えてしまった地名。聞いて、見ていただけの地名が実際の現実として改めて迫ってきました。沢山の人がやむなく逃げざるを得なかった場所で、ここで生きていくと決めた方々のお話が本当に切なく、申し訳なく思いました。私もまた「当事者」として生きていく覚悟を持たなくては、と思いました。人が住んでいない家。何もない(一見きれいに見える)平原がこんなに切ないものだとは思いませんでした。河田先生の油菜の里のお話を聞いて、本当に嬉しく思いました。(Y.K.)
- 3)2年前のいわきに続いて、また福島の原発事故の被害がひどかった所に行くことが出来たのはハカルワカルの地道な活動のおかげと思い感謝しています。「原発反対 福島を忘れない」という掛け声がどこからともなく聞こえてきました。(R.M.)
- 3)原発以前に仕事の関係で忘れられないことがあります。1980年代の半ば、日本の産業構造の再編の頃、常磐炭鉱が廃鉱の後に大手電気産業がいわき市に進出し、県民の生活水準の低さを利用して、一次下請け、二次下請け工場を作り、信じられない安い工賃を押し付けていた。その実態を調査しました。学生といっしょに一戸一戸ヒアリングに歩きましたが一円単位以下の工賃で、東京の学生のショックは大変なものでした。福島は当時沖縄に次ぐ最貧県だったのです。原発はそうした土壌の上に乗っかって県民の生活水準の向上への潜在的要望を甘言で釣って裏切る結果になったと思います。富めるもの、権力あるものが貧しいものを踏みにじって捨てるという政治をこの原発事故を契起に断ち切らせたいと思います。(S.I.)
- 盛沢山の企画でとても良かった。地元の人の話を聞くことが出来、福島を見られたのは良かった。(M.N.)
- 3)今回初めて原発事故周辺の町を訪れた。時々テレビで報じる情報と、なまで見る情報のギャップを感じ、改めて測定することによる事実の大切さを思った。(M.T.)
- 3)東京で何ができるのだろう? 現地では声を上げることが難しくなっている。福島の声を伝える役割の何が出来るのかを考えていきたい。(K.S.)
- 双葉屋女将と原発で働いてきた白鬚さんのお話に、被災地で生きていく方の感情的にならず真摯にむきあう姿勢と芯の強さを感じました。そして、翌朝の河田さんの話を伺って、このような運動を長く続けている方と繋がっているからこそだったのだと、人と人とのつながりの大切さを感じました。河田さんが、これからの夢はと聞かれ、いくつもあげていた楽しそうな表情に私まで気持ちが明るくなるようでした。南相馬の測定室は、地元の人達の要望を受けながらの運営をしていたし、希望の牧場の吉沢さんの何時間でもしゃべってくれそうなパワーはどこから来るのだろうと感じました。(K.K.)
- 焼却場や処分場も軍需産業がらみですべて金儲けのためと知り、憤りを禁じえません。土地収用に関しても故人でハンコを押せるはずのない地主の承諾書が複数存在したりというでたらめなやり方は、国会で今いろいろなことが露わになっていますが、地方でも起きていることは同じと思いました。また帰還を急がせるのも“事故は大したことない”と見せかけるためで、いろいろな構想なども、生活する人の気持ちや要望を無視したひどい政策だとよくわかりました。(T.A.)
- ガランと人影のない所に建つロボットセンターの建物が、異様に大きく現代的なのがかえって切なかった。 3)今回のツアーで福島の人とつながる端緒が作れた気がする。(T.N.)
- 3)震災前から福島へはたびたび訪れており、今は亡き母との思い出多き土地でした。原発事故のせいで福島の美しい自然が汚されたことに怒りを覚えますが、福島からの電気の恩恵を受けてきた東京の人間として、これからも福島とつながっていきます。(S.U.)
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